人間が社会生活を平和で送るために、なぜ、その逆の戦争が生産されるのか?また、人種間の差別、経済間の格差、先進・後進国の文化的格差、などでの蔑視や侮辱などの様々な摩擦が起きています。なぜこれが解決しないのか?

 ただ、「これらが悪い、これらを無くせ」と如何に騒いでも何ら解決はしません。
この根本的な問題は、人間の発想や思想にあるのです。

 これらの発想、思想を具体的に生活上に「説き表した」のが、宗教といえるでしょう。宗教によって、難しい理論や思想を理解できない人が居たとしても、その宗教に従っていれば、その思想を実現する事が出来たのですから。

 そして、これは団体をも形成し、国家をも形成して行ったのです。
さて、それでは世界に沢山の宗教があるようですが、分類すると二つに分かれます。

 一つは自然を崇拝する、神を中心とした宗教で、「世の中の全ての始まりは神が創った」
と云う説です。これは人間も絶対に神に為ることはできません。

 たしかに自然のあらゆる森羅万象の合理性を観た場合、これを創った者が居るとすれば超越的な神を想像するのは、当然か?とも思えるのです。

 しかし神は誰も見たことは無いし、人間や他の生物を作っている現場も見た人もおりません。これは創造神と云う事で、誰かが創造した事を「こうなのだ。」と伝えた事が広がって、信者が形成され、宗教と云う団体になったものと思います。

 創始者は「私が天の神より啓示を受けた」と言って、この方の言葉が神の言葉と捉えて信者に伝わります。これが導きと云う指導体制になります。
 
 この信者をまとめる指導体制に異論は無いのですが、この「天の神より啓示を受けた。」と云う方々が各所から出てきて各宗教を形成し、各人それぞれの解釈で神を論じております。

 これが宗教対立となり、お互い相容れない形となり相手を憎んだり、軽蔑したり、の元になっているようです。迷惑しているのは神の方では無いでしょうか。

「絶対神あるいは創造神」の様な存在があるとすれば、それはこの世界には一つしかないはずです。部分的な神の存在は沢山ありますが(山ノ神・海の神・太陽神・竜神・雷神など)それらは、大本の神の家来か部分神であるはずです。

 人々が生活を営んでいるところには色々な障害が立ちはだかります、人間にはどうすることも出来ない大きな災難やまた個人的に遭遇する病魔や遭難など・・・。
このときはおそらく超神的な神の力にすがりますね。でも考えて見てください。あなたはその神とどの様な約束をしているのですか?「約束は無くても神は必ず護るのだ・・」と云うのですか?。そんなかってな考えこそが人間のエゴではないでしょうか。
これでは神様を召使にしている様なものですね。

 でも、このような神を崇拝する宗教が世界の人口では一番多いようです。
神を崇拝している世界では、何か災難が遭ったり大きな災害に襲われた時、「神の怒りだ」
と、捉えるようです。そして神の怒りを静めるために、最高の貢物として、生贄(いけにえ)として、動物を神前で殺し、その生き血を身体に塗って神に祭りを挙げたりします。

 古くには、まだ若い生娘を火の中に突き落とし、神に捧げるのが年中の行事だったと言われています。ともかくそれで神の怒りが収まったかどうかは定かでは無いようですが、信者はそれで一時は安心したのでしょう。

 とかく神は「神の啓示者の一存で、どの様にもなる」と云うことです。
わが国でも明治から昭和にかけての戦時中は、天皇を神と崇め、「天皇と神は一体である」
として、政府や軍部はそれを利用し、国民と近隣諸国に莫大な屈辱と犠牲と損害を与えました。

 わが国の天皇はその昔から神としての存在を継承してきたので、天皇を神として崇める事は国民にとって何ら抵抗は無かったのでしょう。天皇も現人神(あらうどがみ)と云われ、「天の神の啓示を常に受けている人」と捉えていたようです。
 これは国家を司る政治には、一番利用しやすい思想の統一ですね。

 しかし近代文明は科学と歴史分析が発達し、非現実な神の思想から少しずつ解放され、民主主義や自由主義が台頭するようになって来ました。昔のような神の権威は少なくなったようです。でも現実の不幸や災難は消えたわけではなく、逆に民主主義や自由主義でも科学が進めば進むほど、不幸も災難も戦争も大きくなってくる事に民衆の不安は一層深くなってきているのです。

 いつの間にか科学至上主義が、宗教のように取り込まれ、医薬品も医術も、精神分野に措けるものはPCを使った通信技術の普及で携帯電話やスマホと云った物まで、各個人が持てるようになりました。

 さて、ここからが新しい難問の始まりです。
如何に新しい科学文明の利器か出来たとしても、代わらないのは使う人の心です。人の心は旧態以前の四悪趣・六道流転の民衆が多いのです。ここから人間が開放されない限り安心も幸福も平和も築けないと云うことを、知って頂きたいのです。

 このために「五次元の概念と云う道案内」を創ったのもそのためです。
道案内である限り、その先の幸福と平和な安寧な国土が出来ている事は知っております。
しかし、ここでは、道案内に留めておきますね。

 ここで一つ整理して置くことは、神を宗教とする思想は、その全てにおいて何か問題が起きた時には、「その原因は自分の外にある。または相手にある。と云う概念」があります。

 これを「外道主義」というのですが、これは問題が起きると必ずその外にある「原因物質または敵を見つける」という発想になります。そして敵を排除する、それがばい菌であればばい菌を殺滅することか第一義とされます。グループであれば仲良しグループと疎外されるグループに自然とそうなっていきます。 今の近代国家はこのような概念で動いていると云っても過言ではないでしょう。

 この概念の中での平和主義とは、「同じ価値観の中に相手をも取り込む」事が「平和を樹立すること」になります。

 わが国も西洋を中心とする同じ価値観を共有するようになって、もう70年を超えました。しかもその中では戦争も無く、平和と経済の発展が出来た事は、とってもあり難いことでありました。しかしこの平和で豊かな国内でさえ、問題が惹起してきました。
 それは、自分の幸せを護るために、他を排斥する、という思想が根底にあるからです。
 そのために膨大な防犯設備や防犯システム等と更に複雑な法律も出来ました。

 まず、学校などの集団で居なければならない中での「いじめ」と云う排斥行為、職場内でも同じ事が見受けられます。これらは自分に合わない者、嫌らしいものは、排除するか殺す、と同じ事になるのでしょうか?

 ここまでは神を宗教とする「外道主義」について述べましたが、これに対して「内道主義」として、今から約3,000年前にインドに誕生した釈迦が説いた「仏教」があります。

 仏教は全てが「内道主義」です。これは現代に於ける方々でも理解できない方が多いようです。

 内道の仏教
 これは煎じ詰めて言えば、幸福も不幸も、地獄も極楽も、それに遭遇する喜びや苦しみその原因と解決する方法は、「自分の心中にある」と云うものです。
釈迦はこの悟りを仏陀の(聖者)悟りと云い、苦しみあえぐ大衆を救って行ったのです。

 これは単なる知識ではありません。仏陀に成ったということは、「宇宙に有る力応を得た」と云うことなのです。幼少に言葉を発した時「天上天下唯我独尊」と発したそうですが、その悟りと云う現実の理論、や、難が降りかかったときの忍耐と対応などにおいて、雅全として魔を降伏させて行ったのです。釈迦は釈尊と称され、自らが仏の力を示し、仏の境涯に為る方法(成仏法)を教えていったのです。

 釈尊の成仏法には、時がありその時に合った教えがあり、釈尊入滅後の予言は全て的中している。

 要約すると、五個の五百歳と云うのがあり、釈尊滅後の教法の流布する事を予言しました。 それに依ると、①=解脱堅固(解脱とは仏法を理解しようとして修行に励む事)

堅固とは、必然的にその様になる、こと。②=禅定堅固=禅定して仏法を悟ること。
③=読誦多聞堅固=経文を読んだり誦したりして修行すること。④=多像塔寺堅固=仏像や寺院を建てること(供養などで)で仏果(仏の功徳)が得られた。
以上で2,000年だが、釈尊の仏果はここまでであり。その後 ⑤=闘諍言訟して白法隠滅せん。と云われて、貧・瞋・瞋が強くなり、訴えごとや争いが多く釈尊の仏法では救えない時代になる。ここで①~②1,000年間を正法時代と言い、③~④1,000年間を像法時代と言います、⑤以降を末法時代と言って。現在は正に末法時代で釈尊の予言通り訴えや争いごとが日常的に起きている。これは今から遡る1,000年ほど前から、曽我氏と物部氏との戦いから、戦が起こっているのです、

 では、末法以降は民衆を救う仏は居ないのか?と云うことですが、この事も釈尊が法華経という中に予証されているのです。 また釈尊の出世の本懐は法華経にあるのであり、その法華経の肝心は末法の仏の出現を予言したものなのです。

 ここも要約すると、{法を説いた場所は二処三会(にしょさんえ)と言って、霊鷲山
で2回法説をし、肝心の末法の仏の出現を予言した場所は、虚空会(こくうえ)の中で説かれているのです。これは釈尊の心の中のイメージを出して説いたものでしょう。
そこには、六万恒河沙(ろくまんごうがしゃ)の菩薩たちが大地より涌出(ゆじゅつ)しその頭領に上行、無辺行、浄行、安立行、の四大菩薩がおり、さらに四菩薩の上首の上行菩薩が法華経・神力品の結要付属(けちようふぞく)を承けて末法の妙法弘通を託された。}
 となっており、末法を救うのは法華経の行者・上行菩薩なのであります。

 また、この菩薩達は大地より涌出した、と云うことは上流階級や支配階級ではなく、極一般の底辺階層の方々です。このような中から、末法を救う法華経の行者・上行菩薩が約800年前 日蓮として誕生し(幼名、薬王麿)法華経・勧持品に説かれた命にも及ぶ大難を何度も受け、末法万年を救う妙法を樹立したのであります。

 仏法を翻釈するのには、本と迹(しゃく)に分けて捉えます。迹と言うのは一応とか表向きとの意です。「日蓮は、法華経の行者上行菩薩は迹、本地は自受用身(じじゅゆうしん)
(自らが元々 本仏で有った)なり」と竜の口の首の座(刑場で斬首される瞬時に流星が現れ処刑できなかった)以降、発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)(迹を払って本を顕わす)され、末法万年に渡る民衆救護の大本尊を顕わして、出世の本懐としたのです。

 不思議ですが、この大御本尊に縁を結び、お題目を唱えると即身成仏という仏果が現れます。これは誰の魂の中にも十界の生命の中の仏界と云う、最高至極の生命が潜んでいるのですが通常では仏界を顕わすことは出来ません。この仏界を顕わす事を成仏の境涯と云うのですが、この境涯になると、どのような悩みや苦しみも全て変毒為薬され、解決して行けます。この様な方が増えてくる国土を仏国土と云うのですが(フランスの事ではありません)この仏国土になると、強靭な福運が国土を護り、他国が攻めてくるような事をも未然に防ぐような働きが出てくるのです。これはどの様な防衛よりも凄いことでしょう?

 これが内道仏教の真髄であり、釈尊もこれを説き広め、そして末法の御本仏日蓮大聖人がこれを確立しました。

 現代の忙しい私たちにも日常の生活の中で、昔の長い仏道修行以上の成仏の境涯を受け、崩れる事のない幸福な境涯を過ごせるのです。その様な方が大勢いるのですよ。

 この稿はここまでとします。五次元の発想は幸福と平和の道案内ですから、
もし、本当に平和を希求するのなら、これから先は内道主義を実践して見て下さい。
本当の価値は実践しなければ解らないのです。宗教を論ずる学者や博士などは沢山居りますが、全てが空理・空論で、的が外れています。これからの時代は実践した人が語らなければならないと思います。